尚道館道場は昭和10年7月現在地である東京都杉並区下高井戸に初代館長岡田守弘(剣道・居合道範士 警視庁剣道師範、東京大学剣道部教養学部師範を歴任)が創設。通称岡田道場とも人々に呼ばれた。当時寄席であった建物を買い取り道場に改築したものが最初で、広さは廊下を含め5間の6間であった。創設当時より警視庁の教師、助教の先生方の協力で活発な稽古が行なわれ門人も増えていったと言われる。戦時中においても稽古は続けられたが、当時家族は疎開、館長のみ道場に留まり戦火からこれをひとりで守り抜いたと言われる。周辺は空襲を受け両隣の家屋は焼失したが初代館長の文字通り命懸けの消火活動により道場は焼失をまぬがれ、終戦を迎えた。
終戦後の剣道禁止期において「同志会」という組織が柴田万策範士を中心に結成され忠信館幼稚園、野間道場、早稲田大学、早稲田警察、戸塚警察と場所を移し活動を続けたがそれぞれ禁止を受け、昭和22年頃より尚道館において月・火・金曜日にこの同志会の稽古が行なわれるようになり、専門家、財界人を問わず様々な方々が集まり稽古を続けた。当時の同志会を構成された主な方々は次の通り。
[警視庁関係]斎村五郎、柴田万策、小野十生、森 正純、大野友規、堀口 清、
小川忠太郎、飯田昌隆、高田正信、斎藤今朝治、片桐昌七、渋谷良助、棚谷昌美、
黒島一栄、河島 蔚、小室長二郎、加藤藤太郎、仲川直丸、森島健男、斎藤泰二 他多数
[警視庁以外]佐藤貞雄、増田道義、中野八十二、渡辺敏雄、羽賀準一、佐藤 顕、
森井定勝、藤田倶一郎、斎藤 寛、鏑木武盛、ベンジャミン・ハザト(米国軍人)他
(順不同、敬称略)
尚道館で続けられたこの同志会が主体となり東京では剣道の命脈が保たれ、剣道復活の気運が盛り上がり、連盟創設に向け昭和25年頃より話し合いがはじまった。26年には東京都剣道連盟を創設すべく準備会作りが行なわれ、柴田、渡辺両先生が中心的役割を担って昭和27年5月に東京都剣道連盟を発足、そして同年10月の全日本剣道連盟発足に結びつけた。初代館長が命懸けで守った小さな個人道場が、この「剣道復活」という大事業に大きく貢献することとなった。連盟結成以後も同志会は定期的に尚道館において継続されたが、渡辺敏雄範士の逝去に伴い平成2年2月の例会をもってその幕は閉じられた。
戦後もうひとつ尚道館において行なわれた稽古が、小野派一刀流の稽古である。笹森順造宗家の道場、禮楽堂が出来る以前の昭和20年代、尚道館で宗家指導による一刀流剣術の形稽古が石田和外(第二代全剣連会長)、小野十生、小川忠太郎、鶴海岩夫、大森茂作、清野武治等の先生方で続けられたことも特筆すべき事であった。
初代館長は戦前より中山博道範士高弟の橋本統陽範士につき居合道を学び、以後居合道の指導にも情熱を燃やし剣居一体を目指した。初代館長の門人に佐川博男、草間昭盛、山本繁雄、岡本義春各範士をはじめ多数の高段者を輩出した。
昭和47年頃からフランス剣道連盟(現顧問好村兼一氏依頼)より長期日本滞在の外国人門弟を受け入れ、全国においてもいち早く剣道における国際交流及び伝承を行なう。以後現在まで約30年にわたりフランス人剣士の指導に携わり、また海外において講習会を実施しさらに大きく発展をしており、その結果、現在では六,七段の高段者も数名生まれている。
昭和59年に初代館長90歳にて死去の後、次男岡田又彦教士が2代目館長に就任。平成2年より現3代目館長岡田守正に引き継がれる。昭和50年、平成8年の2度、改築を行ない道場も現在3代目となる。平成14年にはこれまでの活動が認められ財団法人全日本剣道連盟創立50周年に際し、同連盟より感謝状を授与された。本年(平成17年)創設70周年を迎えるが、初代館長の指導理念を忠実に継承し後世に伝えるべく活動している。
参考資料
「剣道の復活」「東剣連30周年記念誌」「現代武道家物語」「一つの戦後剣道史」